古代ギリシアに生きた「ソクラテス」という人物。教職の世界ではおもに、問答法ということばとセットで出てくる。しかし、ソクラテスの魅力を本当に味わったことがある人は少ないのではないかと思う。
ソクラテスは哲学する上で言語(ロゴス)に価値を置いた。そんなソクラテスにとって「〇〇とはそもそもなんであるか?」「果たして何が〇〇であるのか」といった問いは中心的な問いであったといえる。そんな彼の姿から、よく人が陥りがちな定義の誤りを学べる。今回はプラトン著、ソクラテス対話編『テアイテトス』をじっくり味わいながら定義について考えていきたい。
場面設定 「誰が大成の見込みあるか?」
本題に入る前に、この『テアイテトス』というストーリーの場面設定を簡単に確認しよう。ある日、エウクレイデスとテルプシオンが市中で出会う(この二人は作品全体のイントロダクションを担う。冒頭のみの登場で後は出てこない)。この二人の対話の中で話題に上がったのがテアイテトスという人物。このとき、テアイテトスは赤痢にかかって瀕死状態だった。このテアイテトスは、ソクラテスから「相当の年輩になりさえしたら、きっと屈指の人物になる」と言われたほどの男だった。テアイテトスとソクラテスはある議論を交わしていたが、その議論の内容をエウクレイデスはソクラテスから聞いて書きためておいた、という設定。ストーリーは、この書きためておいた記録をエウクレイデスの召使が読み上げる、といったスタイルで進行していく。
テアイテトス
ある日、ソクラテスと、テオドロスという幾何学の先生のような人とが団らんしていた。そのときソクラテスはテオドロスに「アテナイの若者の中で誰が大成の見込みがあるか」と尋ねた。そのときテオドロスがあげた名前がテアイテトス。稀に見る好天秤の若者だと賞賛する。「幾何学に心得のあるテオドロスがそんなに褒め称える若者とはどういった人物なのだろう」とソクラテスは興味津々。近くを通りかかったテアイテトスを呼び止め、ソクラテスの問答が始まった。
「何が果たして知識であるのか?」
知識とは果たして何であるか…。いろいろな「知識」を得たいと思って、人は自己研鑽に励むが、そのもう一歩奥にある世界「知識とはそもそもなんであるか」というのはなかなか考えないことかもしれない。
テオドロスに師事しているテアイテトスに対してソクラテスは「君はテオドロスから幾何学について学んでいるだろう」と尋ねる。はい、と答えるテアイテトス。その「学ぶ」という営みをソクラテスは掘り下げていく。学ぶ、ということは、その学ぶ事柄について知者になるということだ。知者になるということは、そのことについて知識がある、ということに違いない。ならば、その知識とは一体なんだと思うか、とソクラテスは尋ねた。
「まさに知識であるところのもの、それはそもそも何であるか?」
尋ねる人によっては(あるいはほとんどの人が?)聞いたら鬱陶しがるようなこの質問。しかし、ソクラテスの魅力の一面はそこにあると私は考える。納得するまで徹底的に問う。そんな姿にしびれる人がいるわけだ。
さて、この質問に対して、テアイテトスはこう答えた。
「幾何学とかそれから、それはもうさっきいろいろとあなたのほうから名前をあげてくださいましたが、ああいうの(天文・算術・音楽)も知識だと思われますし、また更に履つくりの心得やそのほかの職人たちが心得ている技術も、そのぜんぶがおのおのの知識にほかならぬと思います」
このあと、テアイテトスは、この回答のまずさをソクラテスから指摘されることになる。なぜまずいのだろうか。
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「土が水に混ざると泥土になる」
テアイテトスの誤りは、定義を尋ねられているときに「例示」をあげてしまったことだった。テアイテトスは幾何学、天文、算術、音楽といった知識の種類を例示しているが、それはソクラテスの求めている「知識それ自体はそもそも何であるか」という問いとはズレている。そもそも、定義文の中では、定義した語句を使って説明してはいけないのであって、「知識とはたとえば幾何学の知識である」といっても何を意味を成していないわけだ。
ソクラテス「なるほどね、これは、君、屈託のない気前のいいやり方だ。求められたものは一つであるのに、君が与えてくれるのは多くのものなのだ。簡単なものではなくって複雑多様なものなのだ」
ソクラテスは泥土の例を用いてこの状況を説明していく。たとえば「泥土とはそもそも何であるか」と問うたとき、陶もの師が使うときのもそうだ、瓦師の用いる泥土もそうだ、人形作りの職人が製作のときに使うものだ…といってもそれは笑止なことであって周りくどいだけだ。ただ「土が水に混ざると泥土なのである」というのが簡単で正しいだろう、と。
何かを深く考えたいとき、あるいは本質を考えたりする場面で「〇〇はそもそも何であるか」と問うことは意義のあることだ。その定義の本来的な在り方に気づかせてくれる、そんなヒントがソクラテス対話編には転がっている。