〜記事の要約〜
ソクラテス対話編『テアイテトス』から。ソクラテスは母パイナレテが産婆であったように、自らもある種の産婆であることをテアイテトスに告げた。それは男からアイデアを取り出す「産婆」だった。「知識とはそもそも何であるか」という問いに苦しみながら思うことを述べたテアイテトス。彼の「分娩」したものを検査して、ソクラテスは人間尺度論を語り出す。それは現代のアニメ作品にもネタを提供していたようで。

キーワード:産婆術、感覚、人間尺度論、プロタゴラス

今日のテーマは人間尺度論。涼宮ハルヒが好きな人は、小泉くんの「我観察する、故に宇宙あり」というフレーズを知っているかもしれない。世界が意味を持つのは人間が存在するからだ、という理論。その理論はもうすでに古代ギリシャで登場していた。


産婆術で嫌われていたソクラテス?
ソクラテスはアテナイから死刑を命じられてこの世を去っている。訴えられた罪状は「青年を腐敗させた」罪。アテナイにはソクラテスをよく思わない人が相当数いたらしい。ソクラテスが嫌われていた理由は「人を行き詰らせるから」だった。ソクラテスは人々に問答し、その人たちが持っている考えの無知を指摘していった(それは嫌われるだろうに)。

反感を買いながらソクラテスは言う。「僕は男たちから精神の産をとる」産婆なのだと。ソクラテスのお母さんはパイナレテという人で産婆だったそうだ。産婆は産めなくなった人がやることであり、産もうとしている人の陣痛をコントロールすることが仕事である、とソクラテスは言う。そして、男の精神の産は、女の肉体の産とちがって、分娩したものの真偽を検査する仕事もあるのだ、と。

「産めなくなった人」という言葉から、ソクラテスが若い時は、産む人であったのだということを推測できる。老年のソクラテスは、若いテアイテトスを前にして、「知識の定義」についてのアイデアの取り出しを協力しようとした。

知識とはすなわち感覚(感受)である。
知識とはそもそも何であるか、その答えに窮したテアイテトス。自信がないながらも「知識とはすなわち感覚(感受)である」と述べた。これを聞いたソクラテスはプロタゴラス説を取り上げてこの主張を補足した。そのプロタゴラス説というのが人間尺度論。

「あらゆるものの尺度であるのは人間だ」
もし「今日は風が冷たかったですね・・・」と言われたらどう思うだろう?ある人は「そうですね、ほんともう4月なのにね」といったり、あるいは「え、そんなでもなかったよ」といったりするだろう。さて、この「風」が冷たいものであったり、そうでなかったり、あるいは同じ冷たいでも人によって程度がちがったりするのはなぜなのだろうか?

それは受け取り手の感覚がちがうからだ、というふうに言える。そういった感覚の違いは相対的なもので、同じ風でも、Aさんの感じるAさんの風の冷たさがあり、Bさんの感じるBさんの風の冷たさがある。ここにおいて「風の冷たさ」は、受け取り手なしには存在しない。それをソクラテスは(プロタゴラス説の解釈として)「他と没交渉にそれ自体単一として存在するものはない」と述べた。受け取り手一人一人が感じてこそすべてのものは存在する。感覚と存在の対応関係、その確かさ、偽りのなさこそ、感覚の知識足り得るところだ、とソクラテスはテアイテトスの主張を理解した(この論理展開はすこし怪しいけれど・・・)。

さらに、プロタゴラス説はソクラテスによって発展する。すべてのものは「ある」のではなく「なる」のであると。風の冷たさは、それ自体として「ある」のではなく、感覚する人との出会いによって「なる」のだ、とソクラテスは述べる。静的な存在はなく、すべてのものは、相互の動的な関わり合いの中から生成される、すなわち「成る」のだ、という。

我感覚する、ゆえにすべては成る。そう言うこともできるかもしれない。思えばこのテーマはいろいろなラノベで用いられているもの。そんなテーマがはるか昔、古代ギリシャの時代から綿々として繋がってきたみたいだ。

今日はここまで。アスクレピオスによろしく!